『羆風(ひぐまかぜ)』感想:どれくらい怖いのか──三毛別熊害事件と開拓地の現実

『羆風(ひぐまかぜ)/飴色角と三本指』(ヤマケイ文庫「野性伝説(戸川幸夫, 矢口高雄/2018年)レビュー・感想・書評

 

『ヤマケイ文庫 野性伝説 羆風/飴色角と三本指』(戸川幸夫 作・矢口高雄 画)表紙画像(出典:Amazon商品ページ)

 

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はじめに──北海道の開拓地で、何が起きたのか

『羆風(ひぐまかぜ)/飴色角と三本指』(ヤマケイ文庫「野性伝説」)は、北海道で実際に起きた “三毛別熊害事件” (大正4年=1915年12月)を、動物文学作家・戸川幸夫が綿密な取材をもとに物語化し、それを矢口高雄が漫画として描いた作品である。

舞台は、開拓が進む一方で、集落と森の境界がまだ曖昧だった時代の北海道

山の不作と飢えを背景に、一頭のが人里へ現れ、家々の周囲をうろつきはじめる。やがて事態は、村人たちの生活そのものを揺るがす“長い攻防”へと発展していく。

本作の特徴は、人間側の恐怖と混乱を描く一方で、羆の行動もまた“自然の論理”として淡々と示すところにある。

 

 

 

ここからは、実際に読んでいて身体に残った感触について、順に書いていこうと思う。

まずは、この作品がどれくらい怖いのか、そしてその怖さの質について語りたい。

 

 

 

 

 

どれくらい怖いのか──静かに積み重なる「本物の恐怖」

結論から言えば、本作はすさまじく怖い

ただしそれは、ホラー漫画にありがちな「おどろおどろしさ」や「グロテスクな誇張」による怖さではない。

読み始めた当初、むしろ僕は「意外と怖さを前面に出していない漫画なのでは」と感じた。

人間の描写は『釣りキチ三平』を思わせるほど生き生きとしており、生活の匂いが濃い。

熊も、闇の奥から正体不明の怪物として忍び寄るのではなく、最初から読者の前に姿を現している。しかも、熊の側の状況や心情までが、淡々と語られる

絵柄もまた、いかにも「恐ろしいヒグマ漫画」といったホラー調ではない

 

そのため序盤では、「これは恐怖よりも、生活や自然を描く物語なのだろう」と、どこか油断してしまう。

だが──その油断こそが、後に強烈な恐怖へと変わる

 

「この生き生きとしたキャラなら助かるだろう」と無意識に思っていた人物が、現実として、あまりにもあっけなく、そしてむごたらしく命を奪われる。

熊に襲われる場面も、いわゆる“グロい絵”で強調されるわけではない。

むしろ、「何が、どうなっているのか」が異様なほど具体的にわかる描き方だ。
そのため読者は、「もしこれが自分の身に起きたら」と想像せざるを得なくなる。

 

そこにあるのは、血の派手さというよりは、死の肌触りそのものだ。

ざらりとした、トラウマ的な怖さ
「人食い熊」という言葉から連想される生々しい現実が、否応なく立ち上がってくる。

人間の味を覚えた熊が、開拓地の家屋をうろつき、侵入していく描写。
そして、物語後半に訪れる、救いのない地獄絵。

漫画という枠を超え、ただ呆然とするしかない恐ろしさがある。

 

 

 

 

 

熊の視点がもたらす、もう一つの恐怖

しかし、本作の恐怖はそれだけでは終わらない。

むしろ、より深く心に残るのは、熊の側から描かれる視点だ。

人間から見れば、あまりにもおぞましい出来事。
だが熊にとってそれは、自然の営みであり、生き延びるための行動に過ぎない

山の不作。
飢えたまま冬眠に入れば、冬の間に餓死してしまう。
「もっと喰わなければならない」という切迫した衝動。

熊の内面は、擬人化というよりも、動物としてあまりに自然で、納得のいく論理として語られる。領域に侵入してくる人間への警戒や怒りもまた、極めて合理的だ。

 

この描写が冷静であればあるほど、そこに宿るのは「止めることのできない自然の摂理」であり、人間の感情が入り込む余地のない、真の無慈悲である。

 

 

人間視点の阿鼻叫喚と、熊視点の淡々とした自然描写。
この二つが並行して描かれることで、恐怖の輪郭が避けようもなく浮かび上がる。

それは、誰かを責めることも、説得することもできない――
止められない摂理の中に置き去りにされる、人間の無力さそのものだ

それが、恐怖をいっそう現実のものにする。

 

 

 

 

 

人間 対 熊──劇的にならないからこそ引き込まれる攻防

本作は、恐怖一辺倒の作品ではない。物語としても、非常に引き込まれる。

ヒグマと人間との長期戦が、「どちらが勝つのか」という純粋な緊張感を伴って描かれる。

 

序盤に、経験豊富なマタギでさえ裏をかかれる。

救援として別のマタギも現れ、人間側の規模も次第に大きくなり、「今度こそいけるのでは」と思わせる。

だが、熊はモンスターのように正面から無謀に突っ込んでくるわけではない。慎重で、臆病で、危険を察知すれば退く

人間側もまた、銃の不発や判断ミス、恐怖による硬直といった、ごく現実的な失敗を重ねていく。

 

派手な戦闘シーンはほとんどない。

それでも、作戦を考え、迷い、葛藤する人々の姿が丁寧に描かれることで、じりじりと心を削るような緊張感が持続する。

「作り物のドラマ」ではないからこそ、最後まで目が離せなくなるのだ。

 

 

 

 

 

読後に残るもの──辺境の生活と北海道開拓の記憶

読み終えたあと、意外にも強く心に残ったのは、熊の恐怖そのものではなかった。

斧と桑で森を切り拓く開拓民の姿。
掘っ立て小屋の暮らし。
ガラスもない窓から吹き込む粉雪。
夜通し焚き続ける囲炉裏。
雪を下ろさなければ潰れてしまう家。

そうした生活の描写に加えて、本作では、開拓地の自然そのものが、驚くほど濃密に描き込まれている。

トウキビの実りや、自然の葉一枚一枚の表情。
冬を迎えた枯れ木の姿。
降り積もる深い雪。
森や沢に満ちる気配や息づかい。

それらが決して背景として処理されることなく、細かく、繊細に、しかも生き生きと描かれていく。

 

そのため読者は、物語を追うだけでなく、「この土地に生きる」という感覚そのものを、視覚と身体で受け取ることになる。

酷寒の辺境で生きるということの、具体的な肌触りが、静かに体に残るのだ。

 

さらに、雪が積もることでソリが使え、夏よりも往来が容易になるという生活の知恵。
集落の男たちが協力して架ける、氷橋(すがばし)

こうした日々の営みの描写の合間に、北海道開拓の歴史や、当時の熊被害の詳細、さらには時代背景までもが、俯瞰的に挟み込まれていく。

 

この作品をじっくり味わったあとに残るのは、単なる「怖い漫画を読んだ」という記憶ではない。

厳しい土地に生きた人々の空気と時間である。

 

ぜひ、熊の恐怖だけでなく、「北海道の厳冬の開拓地での暮らし」という側面にも、じっくりと浸ってほしい

 

 

 

 

 

『飴色角と三本指』の感想──もう一つの“メイン級”の狩猟譚

この本には、メインとなる『羆熊』の後に、『飴色角と三本指』というカモシカの狩猟を描いた短編も収められている。

正直に言えば、僕自身は購入当初、この作品の存在に気づいていなかった。

『羆熊』というあまりにも濃厚な物語の余韻として置かれた、軽めの一編なのだろう──そんな先入観を抱いたまま読み始めた。

 

だが、その印象はすぐに裏切られる。

この『飴色角と三本指』は、分量こそ短いものの、内容はきわめて濃密で、十分に「メイン級」と呼べる読みごたえを持った物語だった。

 

舞台や季節感は『羆熊』と同じく、冬の自然の中での狩猟である。

ただし、ここで描かれるのは恐怖ではない。
狩りの厳しさと緊張感、そしてどこか胸が高鳴るような “追うことそのものの面白さ” だ。

標的となるカモシカと、その一家の生き生きとした描写にも強く惹きつけられる。

 

物語の骨格は明快である。

高額で取引される立派な角を持つ、伝説のカモシカ「飴色角(あめいろかく)を、「三本指」と呼ばれる手練れのマタギが追う──それだけだ。

 

カモシカの角は、カツオ漁の疑似バリとして使われ、釣果をもたらすことから高く売れた。なかでも「飴色角」の名の通り、飴色がかった巨大な角は極上品である。

通常30〜50キロほどのカモシカに対し、飴色角は100キロを超す大物
毛皮も申し分なく、まさに“伝説”と呼ぶにふさわしい存在だ。

 

そして、その飴色角を、恐ろしいほどの執念で数年にわたって追い続けてきたのが「三本指」である。

狩猟経験は豊富で、作戦眼も技量も確か。
大きな身体、失われた指や片目が醸し出す威圧感だけでなく、山を読む知恵と判断力を備えた、まさに百戦錬磨のマタギだ。

「今年こそは仕留める」──その覚悟が、言葉以上に行動から伝わってくる。

 

ここからの狩猟の展開こそが、この短編の最大の見せ場である。

集団で獲物を囲い、戦略的に追い込む「巻山」
足跡を見つければ、何日も単独で山を歩き続ける「追い獲り」

追う側は知恵と経験を総動員し、
逃げる側もまた、持ち前の賢さ、跳躍力、強靭な蹄でそれをかわす。

一進一退の攻防が、過不足なく描かれていく。

 

さらに、特別天然記念物を狩るという、当時ならではの「密猟」の空気感や、
マタギ宿に一週間以上泊まり込み、狩りにすべてを捧げる生活の描写も印象深い。

そこには、当時の東北の集落に根づいていた狩猟文化と、その世界の手触りが確かに息づいている。

 

伝説の「飴色角」を、「三本指」はついに仕留めることができるのか。

『羆熊』とはまた異なる角度から、狩りと自然の関係を味わえる一編として、ぜひじっくりと楽しんでほしい。

 

 

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熊の物語がひらく、もう一つの荒野

『羆風』が心に残った人には、熊をテーマにした他の名作もおすすめしたい。
ここでは、北米を舞台にした、性格の異なる熊の物語を紹介する。

 

 

『タラク山の熊王(モナーク)』が描く、猟師と熊の壮大な追跡劇

『羆風』が「集落」と「人間の生活圏」を巻き込みながら、熊の恐怖と開拓地の現実を描き切った作品だとすれば、

もう一つ、対照的な熊の名作として挙げたいのが、谷口ジローによる『シートン 4:タラク山の熊王(モナーク)』である。

こちらは、集団戦ではなく、一人の猟師が、一頭の熊を追う物語だ。

舞台は19世紀後半のシエラ・ネバダ山脈猟師ケリヤン熊ジャック(のちに“モナーク”と呼ばれる存在)との攻防は、一度きりの衝突ではなく、歳月をまたいで続く長い追跡劇として描かれていく。

もちろん熊は怖い。だがこの作品で前に出てくるのは、恐怖そのものよりも、追う者と追われる者が山の奥へ奥へと分け入っていく、旅のような時間だ。

谷口ジローの筆致で描かれるアメリカ西部の自然は雄大で、美しい開拓時代の息吹と、山の空気の濃さが、静かにページから立ち上がってくる。

『羆風』を読み終えたあと、熊の物語をもう少し違う角度で味わいたくなった人には、ぜひ続けて手に取ってほしい一冊だ。

 

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