『Still Wakes the Deep』(The Chinese Room / 2024年)レビュー・感想
『Still Wakes the Deep』は現在、PS5やPC(Steam)などでプレイできる。
・PS5(PlayStation Store)
・Steam
北海のリグで目覚める恐怖
今回は、1970年代の北海に浮かぶ石油掘削リグを舞台にしたホラーゲーム『Still Wakes the Deep』(2024)について書いてみたい。
本作は一人称視点の物語重視のホラーゲーム。
戦闘はなく、施設内を進み、状況を打開しながら物語が展開する。
荒れ狂う海上に孤立した巨大施設で、正体不明の“何か”が目覚める。
そこは、陸から遠く隔絶された海の上の世界だ。
閉鎖空間ならではの緊張感と、不穏な空気が強く印象に残る作品である。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ。鉄骨と配管が重なり合う巨大な作業施設。 © The Chinese Room / Secret Mode
僕がこの作品を手に取った最大の理由は、大好きな『Dear Esther』を手がけたThe Chinese Roomの新作だったからだ。
『Dear Esther』は、ウォーキングシミュレーターというジャンルの原点的作品の一つとされるゲームで、スコットランド沖の孤島をただ静かに歩く作品だ。
月明かりの下、打ち寄せる波の音を聞きながら、過去の記憶の断片に導かれるように島を歩き続ける。島には廃墟や過去の痕跡が点在し、断片的に語られる物語とともに、どこか詩情に満ちた空気が漂っている。
その内省的で静かな体験に、僕はすっかり魅了された。
同じ開発会社の作品であれば、ジャンルや世界観が違っても、あの独特の「手触り」や「質感」――つまり空間の中にゆっくりと身を沈めていくような体験が、どこかに残っているのではないか。
そんな期待を抱いてプレイを始めた。
結論から言うと、『Still Wakes the Deep』は最初から最後までその濃密な世界観に引き込まれ続ける、見事な体験だった。
そして、不穏でおどろおどろしい空気に満ちた世界でありながら、石油リグのあちこちには、思わず足を止めて見入ってしまうような静かな美しさも息づいていた。
もちろん『Still Wakes the Deep』は『Dear Esther』とはかなり異なる作品である。
過去の痕跡を静かに辿る孤島の物語とは違い、本作の舞台は海上の石油リグ。閉鎖された産業施設を舞台にしたホラー作品だ。
また『Dear Esther』がほとんどゲームプレイを持たない体験型の作品だったのに対し、本作には終盤へ向けて高まっていくストーリー展開があり、地味ながらも確かな手触りを感じさせるゲームプレイも存在している。
だが、それでもこの作品の体験の核にあるのは、やはり「空間を歩き続けること」だ。
海上に孤立したリグという異様な閉鎖空間を、恐怖とともに歩き回る。
その体験には、『Dear Esther』にも通じる “ウォーキングシミュレーターのような没入感” が確かに息づいている。
その濃密で、廃れた美しさをたたえた世界観の中を歩き続ける時間こそが、この作品の最大の魅力だと感じたのだ。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ内部。配管や大型設備が並ぶ作業エリア。 © The Chinese Room / Secret Mode

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ内部。作業デッキのコンクリートに残る水たまり。光の繊細な反射と緻密な描写に魅了される。© The Chinese Room / Secret Mode
この記事で語りたいこと
本記事では、ゲームシステムの詳細や攻略情報、物語の具体的な展開には踏み込まない。
それよりも、僕自身が強く心を掴まれた「空間体験」と、じわじわと広がる “深淵的な恐怖” の感触を中心に語っていきたい。
リグという閉鎖空間を歩くときの質感。
構造物の中に潜む違和感。
その場に身を置くことで立ち上がる不穏な空気。
そうした体験の側面に焦点を当てるつもりだ。
そして後半では、『Still Wakes the Deep』が描いた「深淵」と響き合う作品にも踏み込んでいく。
具体的には、田辺剛による「クトゥルフ神話」コミック――『インスマスの影』『クトゥルフの呼び声』『ダゴン』『神殿』、そしてエドワード・バーティンスキーの写真集『Oil』だ。
本作で感じた「触れてはならない領域に踏み込んでしまった」感覚を、別の角度から照らしてくれる作品たちだ。
やや長めの章になるが、『Still Wakes the Deep』の空気に強く惹かれた人ほど、ぜひじっくり読んでほしい。
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※本記事ではネタバレは極力避けている。物語については序盤の空気感や全体構造に触れる程度にとどめ、具体的な展開や決定的な場面には踏み込まない。
ただし、怖さの質感や空間の雰囲気については、ある程度の言及が含まれる点はご理解いただきたい。
ストーリーとゲームプレイ(ごく簡単に)
舞台は1970年代の北海。荒波に揺れる油田リグ〈ベイラD〉は、海に隔てられた小さな共同体である。
主人公は事情を抱え、この限られた乗員たちの中に加わった作業員のひとり。
料理担当の陽気な同僚、ぶっきらぼうな整備士、規律に厳しい監督官――性格も背景も異なる人々が、鉄と油の匂いの中で肩を並べて働いている。
ここでは、日々の作業と、交わされる冗談や何気ない気遣いが、互いをつなぐ唯一の空気だ。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグの食堂。序盤に作業員たちが食事をしながら油田開発の話を交わす場面。英語音声はスコットランド訛りで、日本語字幕ではその雰囲気を表現するため九州弁で翻訳されている。© The Chinese Room / Secret Mode
やがて序盤、掘削作業の最中に小さな異常が起きる。
当初は軽く受け流されていたそれが、次第に施設全体を覆う不穏な気配へと変わっていく。
崩れ落ちた通路。
リグの下に広がる異質な光景。
どこかで上がる叫び声。
通路は封鎖され、進める場所は徐々に限られていく。
何が起きているのか。どこへ向かえばよいのか。
答えを求めて進むほど、状況は予想を超えた方向へと傾いていく。
ネタバレを避けるため詳細には触れないが、本作の物語は、じわじわと精神を削るような恐怖と、仲間とのやり取りの温度が同時に進行する構造を持っている。
合間に挟まれる主人公の家族にまつわる回想も、静かに物語に重みを与えていく。
そして後半から終盤にかけて、状況は一気に加速する。
環境は激しく揺らぎ、足場は不安定になり、選択の余地はさらに狭まっていく。
感傷を伴いながらも抗えない流れに飲み込まれていく終盤の展開は、強い余韻を残しながら、胸を静かに揺さぶるものだった。
ゲームプレイは非常にシンプルである。
走る、跳ぶ、かがんで隠れる。
レバーを引き、バルブを回し、狭い隙間を通り抜ける。
アクションゲームとして見れば決して複雑ではない。
だがその単純さは、操作の巧拙を競わせるためではなく、環境に触れるための設計だと感じた。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ内部。大型バルブを回して配管設備を操作する場面。重厚な設備を動かしている「手触り感」が味わい深い。© The Chinese Room / Secret Mode
物理的な動作の一つひとつが、リグという空間の存在感を確かめさせる。
操作は妨げにならず、迷うことも少ない。
全体としては、軽いアクションを伴ったナラティブ主導型の体験と言ってよいだろう。
その「余白」があるからこそ、「空間や音、構造物の細部」に意識を向ける余裕が生まれる。
ゆっくり進みながら周囲を観察できる一方で、要所では緊張感ある演出や会話がテンポよく挟まれる。
退屈さを感じることはなく、物語と体験が自然に噛み合っている。
世界観を主軸とした作品として、ストーリーとゲームプレイのバランスは非常に整っていると感じた。
鉄骨と配管の迷宮を歩く
さて、ここからが本題である。
ホラーとしての怖さを語る前に、まず触れておきたいのは、「石油掘削施設を歩き回れる」という体験そのものだ。
僕にとって、この側面こそが本作最大の魅力だった。
そもそも、こうした産業施設を、物語の中に身を置きながらじっくり巡ってみたいと思ったことはないだろうか。

『Still Wakes the Deep』より:石油リグ内部。配管と階段が複雑に入り組んだ作業区画。 © The Chinese Room / Secret Mode

『Still Wakes the Deep』より:石油リグ内部。配管に挟まれた狭い通路。 © The Chinese Room / Secret Mode

『Still Wakes the Deep』より:石油リグ外部。鉄骨と配管のあいだに設けられた作業用通路と階段。 © The Chinese Room / Secret Mode
鉄骨と配管が重なり合う巨大な構造物。
無骨なタンク群と、複雑に張り巡らされた通路。
海に囲まれた人工の足場。
この空間を、ただ背景としてではなく、自分の足で確かめながら進める。
それが本作の醍醐味だと感じた。
日常のリグを歩く
序盤では、まだ操業中のリグ内部をゆっくりと見て回ることができる。
同僚たちの個室。
食堂や休憩スペース。
鉄骨むき出しの作業現場。
それぞれに生活の痕跡があり、仕事の匂いがある。
この「正常な空気」をしっかりと身体に馴染ませておくことが重要だ。
そうすることで、後に訪れる異変との落差が、より鮮明になる。
序盤に、監督の事務所に向かうまでのわずかな時間。
急がず、隅々まで見てほしい。
海上の小さな共同体としてのリグが、ゆっくりと輪郭を持ちはじめるはずだ。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ。設備やコンテナが並ぶ広大な作業デッキ。© The Chinese Room / Secret Mode

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ内部。配管と機械が並ぶ作業区画。海から差し込む光と影の静かな対比に、ふと足が止まる。© The Chinese Room / Secret Mode
荒れゆく構造物を進む
やがて施設は変質し、風景は大きく様相を変える。
ここからは、壊れ、歪み、崩れていく構造物の内部をメインに進むことになる。
仲間を探し、脱出の糸口を探りながら、鉄の迷宮を抜けていく。
荒れた生活圏も再び現れるが、中心となるのはリグの機構そのものだ。
人が働くために設計された構造の奥深くへと入り込んでいく。
無数のパイプが絡み合い、鉄骨が骨格のようにむき出しになる。
冷たい金属の床。湿り気を帯びた手すり。
急で無機質な階段。
頭上にそびえるタンク。
配管は縦横に走り、空間を細かく分断する。
ドラム缶やパレット、濡れたロープや木箱が散乱し、そこが確かに「仕事の現場」であったことを物語る。

『Still Wakes the Deep』より:石油リグ内部。配管とタンクが並ぶ機械設備エリア。 © The Chinese Room / Secret Mode
そして、浸水したエリアへと足を踏み入れる。
冷たい海水が足元を包み、水面の揺らぎが配管の影を歪める。
その鉄の迷路の隙間から、説明のつかない異様な光景が、ふと視界に入り込む。
音と空間
この空間体験を支えているのが、音だ。
鉄骨が軋む音。遠くで響く機械の振動。
風と波が施設を叩く低い音。
それらが重なり合い、空間全体を包み込む。
音楽と環境音の境界は曖昧で、構造物そのものが唸っているかのように感じられる瞬間もある。
海に囲まれた密閉空間。
金属と油の匂いを想起させる無機質な音響。
配管と鉄骨が張り巡らされた構造物の中を、自分の足で歩き回り、その空気にじっくり身を浸していく。
そうした体験そのものを、ぜひ味わってほしい。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ。煙突状の設備や貯蔵タンクが並ぶ巨大な作業施設。© The Chinese Room / Secret Mode
海の底から滲み出す恐怖
プレイ前、僕が少し不安だったのは「怖すぎないか」という点だった。
ホラー映画やゲームは好きだが、あまりに過剰な恐怖――特に唐突なジャンプスケアや、執拗に追われる展開――は正直なところ消耗してしまう。
だが、The Chinese Roomの作品であることを思えば、単なる刺激の強さを追う方向にはならないだろう、と半ば自分に言い聞かせるようにしてプレイを始めた。
結果として、その予感は当たっていた。
本作には確かに、密閉空間特有の圧迫感も、追われる展開も、突然の驚きもある。
しかしそれらは過度ではなく、あくまで体験を緊張させるための要素にとどまっている。
暗い内部を抜ければ、わずかに開けた場所が現れる。
緊迫が続けば、会話や移動の時間が挟まれる。
難易度も理不尽に高くはない。
その緩急があるからこそ、恐怖は消耗ではなく、体験の密度を高める“スパイス”として機能している。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ内部。巨大な配管が並ぶ狭い通路。暗い設備の奥に、不穏な気配が漂う。© The Chinese Room / Secret Mode
だが、本作の怖さの魅力はそこにとどまらない。
プレイを進めるうちに、もう一段深い層の恐怖が浮かび上がってくる。
それは、単に「襲われる」「驚かされる」といった直接的な怖さではない。
むしろ、
人間が触れてはならない領域に触れてしまったかもしれない、という感覚。
深い海の底から、ゆっくりと何かが滲み出してくるような気配。
そして、施設全体が歪み、自分自身までもが侵食されていくような感覚。
この「深淵に触れてしまったかもしれない」「取り返しのつかない何かが、すでに動き出している」という感触が、本作の恐怖を単なるホラー演出から一段引き上げている。
それは巨大な自然や宇宙的存在に対峙したときの、人間の小ささにも似ている。
石油リグという、人間の技術の象徴が、
いつのまにか理解不能な領域へと傾いていく。
その転倒こそが、本作の核心にある恐怖なのだと思う。

『Still Wakes the Deep』より:北海の石油リグ内部。巨大な配管が走る機械区画。水に浸かった通路に、湿った緊張感が漂う。© The Chinese Room / Secret Mode
そして、映像と共にこの感触を支えているのが、音楽とサウンドデザインである。
旋律を前面に出すのではなく、低音のドローンと重い反復が空間に滞留する。
ゲーム『The Last of Us Part II』や映画『ヘレディタリー/継承』の音楽にも通じる、質感主導のホラー・スコアだ。
それは音楽というよりも、振動に近い。
環境音と溶け合い、リグ全体が唸っているかのように響く。
解決しない反復が続き、安心に着地しないまま時間が流れる。
その不安定さが、見えない深淵の存在を暗示している。
『Still Wakes the Deep』は、強烈なショック演出を求める人には物足りないかもしれない。
だが、
空間の歪みを感じる怖さ
じわじわと侵食されるような不安
取り返しのつかない領域に踏み込んだ予感
こうした感触に惹かれる人には、本作の恐怖は深く刺さるはずだ。
最後に ― この世界に浸らせるもの
この作品で何よりも印象に残ったのは、やはり海上リグという閉鎖空間が生み出す濃密な世界観だった。
だが、その魅力は単に「舞台が良い」というだけでは成り立っていない。
その世界をしっかりと体験として成立させていたのが、地味ながら手触りのあるゲームプレイと、終盤に向かって着実に引き込んでいく物語展開だった。
アクションは決して派手ではない。
だが、走る、跳ぶ、隠れる、レバーを引く、狭い隙間を通る――そうした一つひとつの動作が、リグという構造物の存在感を身体で確かめさせてくれる。
一方で、物語もまた、ただ背景として流れていくのではなく、次の場所へ、次の局面へと自然にプレイヤーを導いていく。
軽めのアクションや緊張感ある場面が要所で差し込まれることで、歩き回ることそのものの魅力を損なわずに、体験全体にしっかりとした求心力が生まれている。
ストーリーもゲームプレイも、それ自体に味わいがありながら、最終的には「この世界に身を置くこと」の価値を支える方向に働いているのだ。
リグという異様で重たい空間を、恐怖とともにじっくり味わいたい人には、強くおすすめしたい作品である。
『Still Wakes the Deep』は現在、PS5やPC(Steam)などでプレイできる。
・PS5(PlayStation Store)
・Steam
深淵の余韻 ― 関連して味わいたい作品
記事の冒頭で触れた通り、この後半では『Still Wakes the Deep』と響き合う作品をじっくり紹介していく。
取り上げるのは、田辺剛によるクトゥルフ神話のコミックと、エドワード・バーティンスキーの写真集『Oil』。
いずれも、本作で感じた“深淵に触れてしまう感覚”と通底している作品である。
すでに本作をクリアした人には、この章こそ、あの余韻をもう一段味わう時間として、ゆっくり読んでもらえたらうれしい。
ゲームにこれから触れる人には、作品の空気の奥にどのような地層が流れているのかを感じ取るための参考として、さっと目を通していただければ十分である。
少し寄り道にはなるが、本作の核心にある感触を別の角度から照らすパートとして続けていきたい。
海の底から滲み出すもの ― クトゥルフ神話(コミック版)
『Still Wakes the Deep』で感じた「触れてはいけない何かに触れてしまった」という感覚。
それは、アメリカの怪奇作家 H.P.ラヴクラフトのクトゥルフ神話が描いてきた恐怖と、どこかで響き合っている。
クトゥルフ神話における恐怖は、いわゆる幽霊や怪物の恐怖とは少し違う。
それは、人類の理解を超えた存在――宇宙的、深海的、あるいは太古的な“何か”が、この世界の奥底に潜んでいるという前提から生まれる。
人間は世界の中心ではない。
むしろ、巨大な存在の片隅に偶然生きているだけかもしれない。
その視点の転倒が、いわゆる「コズミックホラー」の核心だ。
田辺剛の漫画版は、その感覚を視覚的に徹底して描き出す。
静かなコマ運び、重い影、歪んだ構図。
説明しすぎず、しかし逃げ場のない圧をかけてくる。
舞台はスコットランドの海上リグではない。
だが「深海」「侵食」「理解不能な存在」というモチーフは、確かに重なっている。
ここでは、深海の神秘に触れる物語から、人間の身体にまで影響が及ぶ物語へと、侵食の段階が広がっていく順に並べてみた。
偶然だが、後になるほど物語の規模も長編になっている。
▶田辺剛による漫画版「ラヴクラフト傑作集」シリーズ一覧
「神殿」(『魔犬』収録)
第一次世界大戦中の潜水艦を舞台にした物語。
深海を航行する閉鎖された鉄の箱の中で、乗員たちは海底で奇妙な光景を目撃する。
その出来事を境に、艦内には少しずつ不穏な空気が広がりはじめる。
ここでの恐怖は、「密閉空間」と「深海」という二重の圧だ。
逃げ場のない艦内で、乗員たちの精神は徐々に揺らぎ始める。
この閉鎖された空間で静かに進んでいく崩れ方は、
『Still Wakes the Deep』のリグともどこか通じるものがある。
『魔犬 ラヴクラフト傑作集』(Amazonページ)
「ダゴン」(『闇に這う者』収録)
短編ながら、強烈な印象を残す一作。
戦時下の漂流者が、未知の海域で奇怪な光景を目撃する。
海底が隆起したかのような荒涼とした地形と、そこに刻まれた異様な痕跡。
ここでの恐怖は、「見てしまった」ことにある。
それは攻撃される恐怖ではない。
世界の裏側を、ふと垣間見てしまったような恐怖だ。
理解できない光景を目にしたとき、人の精神はどこまで耐えられるのか。
田辺版では、その静かな崩壊の感触がじわじわと迫ってくる。
『闇に這う者 ラヴクラフト傑作集』(Amazonページ)
『クトゥルフの呼び声』
本作は、一つの怪異を直接描く物語ではない。
ある人物の遺した資料をきっかけに、主人公は複数の奇妙な記録を辿ることになる。
奇妙な彫刻。
不気味な夢の証言。
警察の調査記録。
そして遠い海で起きた出来事。
一見無関係に見えるそれらの断片が、少しずつ一つの輪郭を形作り始める。
この作品の怖さは、怪物が突然現れることではない。
調査を進めるほど、世界のどこかで説明のつかない何かが動いている気配が、ゆっくりと浮かび上がってくることだ。
田辺版では、その断片が視覚的に積み重なっていくことで、
「まだ全体は見えていないのに、すでに何か恐ろしいものに近づいている」感覚が強く描かれている。
その調査の手触りは、『Still Wakes the Deep』で感じる
「すでに何かが動き出している」という不穏さとも、どこか重なって見える。
『クトゥルフの呼び声 ラヴクラフト傑作集』(Amazonページ)
『インスマスの影』(全2巻)
物語は、ある若者が寂れた港町インスマスを訪れるところから始まる。
町にはどこか異様な空気が漂い、住民たちの態度にも拭いがたい違和感がある。
やがて主人公は、その土地に沈殿した古い秘密の気配に少しずつ近づいていく。
ここで描かれる恐怖は、突然外から襲ってくる怪異というよりも、
閉ざされた土地に長く染みついた何かが、じわじわと輪郭を現してくるような怖さだ。
田辺版では、海辺の町特有の湿り気と閉塞感が強調され、
逃げ場のない“沈み込むような恐怖”が静かに迫ってくる。
『インスマスの影 1 ラヴクラフト傑作集』(Amazonページ)
『インスマスの影 2 ラヴクラフト傑作集』(Amazonページ)
これらの物語に共通しているのは、
深海や海底という“底”のイメージ
人間が踏み込むべきではなかった領域
侵食され、変質していく心や身体
人類中心的な世界観の崩壊
という構造だ。
『Still Wakes the Deep』が描いたのも、単なる怪物の恐怖ではない。
それは、人間の営みの最前線にあるはずの場所が、いつの間にか理解不能な深淵へと傾いていく感覚だった。
リグで感じたあの不安の延長線上に、クトゥルフ神話の世界は静かに広がっている。
ホラーの強度を求めるというより、
“深淵の空気”を味わいたい人には、ぜひ手に取ってほしい作品たちだ。
▶田辺剛による漫画版「ラヴクラフト傑作集」シリーズ一覧
地下の深淵 ― エドワード・バーティンスキー『Oil』
ここで紹介したいもう一つの作品は、カナダ出身の写真家エドワード・バーティンスキー(Edward Burtynsky )による写真集『Oil』である。
▶ Edward Burtynsky 写真集『Oil』(Amazonで見る)
『Still Wakes the Deep』が海底へと手を伸ばす物語だとすれば、『Oil』は地上から地中へと伸びていく現実の記録だ。
本書は、石油という資源が地中から掘り出され、精製され、輸送され、消費され、そして廃棄へと至るまでの流れを、一冊の中で辿っていく構成になっている。
まず目に入るのは、採掘現場の壮大な俯瞰写真だ。
荒涼とした大地に刻まれた掘削の跡は、抽象画のように美しくもあり、同時に地表に残された巨大な傷にも見える。
人間が地下深くに眠っていたものを掘り起こす光景は、『Still Wakes the Deep』のリグが海底から石油を引き上げようとする姿と重なる。
続く精製所の写真では、無数のパイプや塔状の装置が絡み合い、金属の構造物が迷宮のように広がる。
光を受けて輝くその姿は壮観だが、同時に、人間が制御しているはずの巨大システムの中に取り込まれていくような感覚もある。
入り組んだ配管や鉄骨の構造は、本作のリグ内部の光景とも響き合っている。

エドワード・バーティンスキー『Oil』(Steidl, 2009)より Oil Refineries #23, Oakville, Ontario, Canada, 1999。作品紹介のために引用・縮小して掲載。© Edward Burtynsky
やがて写真は都市へと移る。
高速道路を埋め尽くす車の列、整然と並ぶ北米の郊外住宅地、巨大な駐車場。石油は地下の資源にとどまらず、生活様式そのものを形づくっていることが可視化される。
そして最後に現れるのが、廃車の山や荒れ果てた採掘跡地といった、消費の終端にある風景だ。
そこには劇的な演出はない。ただ、使い尽くされたものたちが静かに積み重なっている姿だ。

エドワード・バーティンスキー『Oil』(Steidl, 2009)より Oxford Tire Pile #2, Westley, California, USA, 1999。作品紹介のために引用・縮小して掲載。© Edward Burtynsky
『Oil』に怪異は登場しない。
だが、俯瞰された掘削現場や車の群れ、積み上がる廃棄物を見ていると、これもまた一つの深淵だと思わされる。
人間は地球の奥深くに触れ、その上に巨大な消費社会を築いてきた。
その光景は圧倒的に美しい。
だが同時に、どこか触れてはならない場所にまで手を伸ばしてしまったような恐ろしさも感じさせる。
『Still Wakes the Deep』の深淵は、ここでは現実そのものの姿で広がっている。
大型判で重みのある一冊だが、決して一度で読み切る本ではない。
時折ページを開き、行き来しながら、地表に刻まれた人間の営みを静かに眺める。
長く付き合える写真集として、繰り返しじっくりと味わってほしい。
▶ Edward Burtynsky 写真集『Oil』(Amazonで見る)








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